消滅した懐かしい自動車メーカー

ホープ自動車
ホープスターST型、ON型

ホープ商会は1951年(昭和26年)東京の上野で個人商店として誕生しました。



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出典: blog.goo.ne.jp


東京電気自動車
たま電気自動車

終戦により立川飛行機(後のプリンス自動車)は自動車メーカーへの転換を図り、東京都北多摩郡府中町に工場を借りて、電気自動車を造る事になった。
当時はガソリンの統制時代で燃料事情も悪かったため、電気自動車に着目して研究をすすめた。
昭和21年には試作車(EOT-46)2台が完成。

オオタ号トラックの荷台の下にバッテリーを積み、ボンネットの下にエンジンの代りにモーターを入れただけのものだった。
翌22年には、独自設計によるのボディによる試作車(EOT-47)が完成。
フェンダーに直接取り付けられたヘッドランプや、アリゲーター型ボンネットカバー等新しいアイディアを取り入れたものだった。
5月に待望の乗用車(E4S-47)が完成。車名は土地の名にちなんで「たま」とした。
2ドアセダン、最高速度35km/h、1充電走行距離65km。
6月に社名を「東京電気自動車」とし、その後順次改良型を発売。49年型たまセニア号では、1充電200kmの走行が可能になった

出典:http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-12.html



オートモービル商会
タクリー号

双輪商会の社長吉田信太郎が、自転車の仕入れに1902年に渡米した際に、第3回のニューヨークのモーターショウを見学し、いずれは日本にも自動車時代が来るとして、ガソリン・エンジンやトランスミッションおよび前後車軸などの部品を購入して帰国する。

 そして先ず手始めに オートバイと3輪乗用車の輸入販売のためにオートモビル商会を設立し、自動車の修理も始める。 

一方、内山駒之助はウラジオストックで機械技術を学び、自動車の運転や修理の技を磨き、吉田信太郎の自動車修理の現場を見て協力することになる。

 製作第1号車は上記部品を使い、1902年に完成、第2号車は車体をバス用に設計し、広島で使われている。 

有栖川宮家のダラックを手本に製作した乗用車は人気をあびて、都合10台が作られ、ガタクリ走る所からタクリー号の愛称で呼ばれた。

出典:http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-1.html



矢野特殊自動車
アロー

資産家 村上義太郎にド・ディオン車の修理を任された矢野少年(工高4年生)は、自動車の研究を始め、自動車の設計にとりかかる。

 手本はRRのド・ディオン車であるが、これをFR式に改造し、イギリスの小型車(オースチン・ベィビィか)を参考として図面は出来上がる。 

村上氏経営の工場を借り、ド・ディオン車の部品を有効に活用し、エンジンの製作には、九州大学の岩岡教授の指導により水冷2気筒とし、工作には大学の機械工場の協力を得ている。 

気化器はフランスのゼニス、点火栓はボッシュのマグネト、車輪とタイヤはオートバイ用の流用し、1916年に完成する。

世話になった人々を乗せたり、ナンバーも取得し、約2年間使用している。

現在は矢野自動車に保管されNHKテレビで試乗状況放映された。

出典:http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-2.html


三菱造船㈱
三菱A型

三菱造船(株)が陸軍の要請に応じて乗用車を製作することになり、1917年、神戸造船所で当時の自動車先進国であった伊フィアットA3ー3型車を参考に荘田泰蔵氏(後の新三菱重工業副社長)等により製作が開始され、1919年に我が国初の量産乗用車として誕生した。

1921年迄に試作を含めて22台製作したが、その後航空機に主力を移すことになり乗用車の生産を中止した。

なお、三菱自動車の岡崎オートギャラリーの展示車両は、当時の資料を参考に自動車ジャーナリストの池田英三氏の考証、五十嵐平達氏の設計などの協力を基に、1972年に復元したものである。

出典:http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-3.html



鈴木自動車工業株式会社
スズライト

日本で最初の本格的軽四輪乗用車であり、1955年 10月に2サイクル・360ccで発表した。
「スズライト」の「スズ」は"スズキ"の略であり、「ライト」は "軽い"という意味のほか、"光明"を意味している。

当時、四輪車に2サイクルエンジンを搭載して成功させたのは、日本では「スズライト」が始めてであり、FF方式 (フロントエンジン・フロントドライブ)を日本で始めて採用したのも「スズライト」である。

出典:http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-17.html



高速機関工業
オオタ

自動車の修理販売を営む、太田裕雄は1922年(大正11年)に早くも第1号車OS号を完成する。 
エンジンの高回転と、ゼニスの気化器とマグネト点火で有名となる。 
当初は965ccであったが、後に748ccとし、ボディ・スタイルを息子の裕一にまかせてから、そのスタイルの良さもあり、このOD型は670台も売れている。

 ダットサンと同様に、同じシャシーでトラックも作っているし、多摩川レース出場車はダットサンをまかしている。 

また、OD号から三井物産の援助もあり、本格的な工作機械、例えばフライス盤やグリーソンの歯切機械なども輸入し、大森に工場を新設し、社名もオオタ自動車から高速機関工業に変えている。

出典:http://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-9.html



日本内燃機工業
くろがね四輪起動車

豊川順弥の白揚社でオートモや、アレス号の開発に加わった蒔田鉄司は、日本自動車に移り、JAC二輪や、オート三輪のニューエラーと、くろがねの設計と製作を担当する。

1932年に会社は日本内燃機となり、陸軍の指示で岡本自転車、ダイハツ工業、トヨタ自動車などと共に小型四輪起動乗用車の開発戦争に加わる。

結果として本車が正式採用となり、95式であるいは98式乗用車として量産に移ることとなる。
特色は空冷エンジンで軽量なことと、大径車輪で悪路走行性に勝れている点にある。トヨタ、ダイハツは水冷4気筒でやや重量が重く、シャシー廻りはくろがねとほゞ同じであったが、等速ジョイント等もワイスやツエッパ式をねらったが、工作が難しく、くろがねの簡易十字型に負けている。